【公式LINE限定】無料経営者タイプ別診断|あなたは何タイプ?>>

【勝手に占ってみた】徳川家康ってどんな人だった?天下統一までを10分で振り返る!

2023年の大河ドラマは「どうする家康」は、嵐の松本潤さんが主演を務めることで話題を集めています。好きな歴史上の人物ランキングでも常に上位の徳川家康ですが、「実は何をした人かあまりわからない…」という方もいるのではないでしょうか。今回はそんな家康の人生を、占いの観点からの考察を交えながら振り返っていきます。

今さら聞けない…徳川家康って何をした人?

  • 生年月日:1543年12月26日(天文11年)
  • 生まれた時間:午前4時(寅の刻)
  • 生まれた場所:三河国 岡崎城(愛知県岡崎市)
  • 幼名:竹千代(たけちよ)
  • 父:松平広忠(岡崎城主)

徳川家康は室町時代の後期〜江戸時代初期に活躍した武将。幼少期は早くに父をなくし、人質に取られたりと不遇の時代を過ごすしますが、室町時代後期には戦乱の世でもあった戦国時代を治め天下統一、その後260年にも及ぶ江戸幕府を開いた人物です。

碕山 六郎

まとめるとすごく簡単に聞こえますが、家康が天下統一を成し遂げたときには既に60歳でした。この当時の平均寿命は50歳と言われているので、狂気すらも感じますね…。

徳川家康を勝手に占ってみた!

それでは早速、稀代の天下人である徳川家康の人生の歴史を振り返る前に、まずは四柱推命・六壬天文易にて実際に占いを進めていきます。

手法について詳しく解説をすると複雑になりますので、簡単にまとめると以下の通りです↓

四柱推命とは?生年月日+時刻の4つの情報を使用して占う方法

六壬天文易とは?…天文と干支を組み合わせて占う方法

徳川家康の誕生日は、旧暦で12月26日、新暦で1月31日と言われておりますが、今回は旧暦にて占っていきます。(生まれ時間は午前4時)

徳川家康を占ってみた結果

  • 性格
    自分の尊敬する親や家、主人など、上の人に期待されていくタイプ。
    潔癖症な面があり、プライドが高くてそれでいて権謀術数に長けており、ずる賢い先見性をもった気質。
  • 才能
    自分の大願を成就させるために、物事を見極め、自分の立ち位置を決めて進めていく。強烈な政治的先見の明を持ち、難しい状況に追いやられても負けない豪傑な一面としたたかな一面の両面が、今の時代とは異なる特殊な個性を持つ。
  • 弱点
    走りすぎた自分を止めることが苦手で、小回りが利かない。存在感が強いゆえに、周りを振り回してしまう節がある。
碕山 六郎

徳川家康のようなタイプはこれまでも見たことがなく、とても珍しい特殊な星の人であるといえます。自分の地位や自分の権威を位置づけていける星でありながらも、苦境を乗り切って自分のビジョンを具現化していくというところでは、運命や星の強さだけでなく、徳川家康個人の才知や器の大きさが、大いに影響を与えています。運命の強さと自身の培ってきたものの掛け合わせで、これまでの偉業を成し遂げたといえます。

もし現代に徳川家康がいたら…?

もし現代に徳川家康がいたとすると、何か新しい市場や産業を生み出したり、もしくは政治家や日本にとどまらず世界のどこかで自分の国を作るかもしません。また、一つ間違えると危険思想ですが、うまくいけば逆に官庁・民間とわず起業して大企業に上り詰める社長、という印象があります。

徳川家康、実はあの時こうだった!

実は意外と悪くなかった…?
織田家&今川家で人質として過ごした幼少期

天文11年12月26日午前4時、徳川家康は三河国(現在の愛知県)岡崎城の城主の嫡子として誕生し、幼名は竹千代と名付けられました。当時は領地争いが激しかったことから、家康もそれに巻き込まれるかたちで、3歳で母と生き別れ、6歳で人質として今川家の元へ送られます。しかし、その道中に織田家に捕えられてしまい、織田家の人質に。ですがその後、織田家と今川家の戦いの中で人質交換が行われ、最終的には駿河城の今川家に捕われることになります。家康はその後、十数年今川の元で過ごすこととなりました。

今井

母とも幼い頃に別れ、父も亡くし、さらには人質に捕らわれるという、とても壮絶な幼少期のように思えます。この時の竹千代(家康)は占いで見るとどういった状況だったのでしょうか?

碕山 六郎

まずは織田家にいた頃ですが、確かに竹千代(家康)は自分の置かれている状況に理不尽さを感じ、とても心が揺さぶられる出来事であったと思います。ですが、占いから見てみると、決して居心地の悪いようには思えません。

今井

なるほど。それは意外ですね。幼い頃に両親と離れるという状況だけを考えるとかなり運気の低い時期だったのかと考えてしまいますが、どういった理由があったと思われますでしょうか?

碕山 六郎

幼いながらも自身の生い立ちの中で、公家や皇族に対して、階級だけ高いところで自分が頑張らずにあぐらをかいてたように思えるのか、社会的批判めいたことをとても感じる場面がこの時期に現れているように思います。

今井

では、7歳以降父が亡くなり戦での人質交換の結果、今川氏の方に捕らわれますが、当時の竹千代(家康)の状況はどうだったのでしょうか?

碕山 六郎

竹千代(家康)自身はそんなつもりはなかったのかも知れませんが、この頃は非常に混沌としており、やはり今川氏との関わりの中で確執や恨みのようなものがあったように思います。竹千代(家康)は虐げられるタイプではなく、周りの人が一目を置くような器量や希少な資質を持っていますし、さらにはプライドも高い人でありました。自身も一国の主でありますし、そういった負の感情も自分の立場を確立していく中で必要だったのではと感じます。この時期をきっかけに国とりに向けての意識が沸々と出てきたのではないか、というイメージです。

徳川家康、運命の転換期
14歳で元服し、16歳で結婚。そして、桶狭間の戦いへ…!

竹千代(家康)は、1555年当時人質として囚われていた今川義元のもとで、14歳のころに元服(成人にあたる)。今川氏の名前から一字を受け継ぎ、名前を竹千代から「松平次郎三郎元信」と名乗るようになります。そして、翌年15歳の頃には、亡き父の法要のために岡崎に帰国。その翌年16歳の頃には、今川義元の姪ともいわれている瀬名姫と結婚します。さらにその3年後には、徳川家康が独立するきっかけともなった運命の戦い、桶狭間の戦いが起こります。

今井

元信(家康)は15歳のときに父の法要のために岡崎に一旦帰国しますが、そのときの状況について聞かせていただけますでしょうか。

碕山 六郎

元服された元信(家康)のこの1555年のところを見ても、彼の心情は深い理由なくすがすがしかったと思います。やっぱり故郷への思いや若きとき思いが彼の中には強く、子供の頃からの変遷ゆえに、初心原点に戻ってなんとなく心地良いものに感じたのではないでしょうか。だから深い意味はなく、普通に安堵や安心感に駆られたということなのだと思います。

今井

ではその後、今川氏の人質時代の1557年に今川義元の姪の瀬名姫という方と結婚していますが、このタイミングについてはどうでしょうか?

碕山 六郎

1557年の瀬名姫との結婚に関しては、瀬名姫自身が不思議な雰囲気を漂わせているのか、それとも瀬名姫自身の立ち位置が今川家のスパイ的な意味を少し持っていたのか。特殊な立ち位置の中で理解のほどが変わってきたとは思いますが、当初のところは家康自身がここを信じられないなので、ある一定の距離を持っての正室だったということだと思います。

今井

なるほど。わかりました。
では、ついに1560年には織田信長が今川義元を破る桶狭間の戦いがおこります。その結果、元信(家康)は岡崎城に帰還して独立するきっかけとなりましたが、この時期の運命の転換というのは、どういうものがあったのでしょうか?

碕山 六郎

そうですね。家康にとっての1560年という時期は、厳しく難しい状況で、運気的には良くない場面を持ってますが、劣勢や不安な状況下の中でも、家康の中では「こうやって戦うんだ」というようなところを感じさせた場面があります。時期的にはこのときの経験が彼の覇業に繋がってるということで、結果的に織田信長の影響は大きかったと思います。

三河国を統一し、徳川家康の誕生
武田軍への大敗と織田信長の死去

その後、1563年には一向一揆を鎮圧し三河を統一。この頃から自身も徳川家康と名乗るようになりました。そして、姉川の戦いと戦が続きます。三河を平定し姉川の戦いにも勝利した家康ですが、1572年の三方ヶ原の戦いでは武田軍に大敗を喫し、命からがら逃げ帰えります。しかし、その3年後の長篠の戦いでは、織田&徳川の連合軍がで武田軍に大勝。しかし1582年の本能寺の変にて、ついに明智光秀により織田信長が討たれてしまいます。

今井

徳川家康が岡崎城主となり、三河平定に着手します。三河を治めていた一向宗の勢力を駆逐するために、1561年から1563年まで戦い続けた一向一揆がありましたが、この時期についてはいかがでしょうか。

碕山 六郎

一向一揆の場面では、徳川家康なりに得るものや考えさせられるものがあったというところが強く、苦戦はしたもののこの時の出来事を経験として消化してきました。厳しかったということだけではなく、これをきっかけに思想も含めて家康自身に影響を及ぼすものがあったとみます。

今井

なるほど。ではその後、徳川家康は織田信長と同盟を組み、姉川の戦いに勝利します。一向一揆から見ても戦がずっと続くわけですが、1570年頃の戦国時代における家康の状況はどうでしたでしょうか。

碕山 六郎

この1570年代を見ると、やはり織田信長の影響が大きいものでした。家康も自分の道を進んで行きたい流れの中ではありましたが、それをも超える信長の思想・着想・戦法などに、あらゆる面で影響を受け進んできているということだと思います。

今井

ところが、1572年の三方ヶ原の戦いでは武田信玄の軍勢に大敗を喫すわけですが、1572年というのはどういう年でしょうか?命からがら逃げ帰ったとも言われており、家康の運気は最悪だったのでしょうか?

碕山 六郎

はい、そうですね。三方ヶ原の1572年というのは、寅年である家康の星も含めて、何かついてない、あるいは目の前にあるものは裏切られて崩れる、といった時期ではありましたので、かなりのつらい経験だったと思います。ですが、ここにあまり悲壮感は出ておらず、どちらかというと、早くから悪くなるのを途中から彼なりに感じて、逃げの一手を決めたことで、結局逃走できたという意味もあるのではないかと思います。

今井

ですが、1575年には長篠の戦いで、戦国最強と言われる武田の騎馬隊を織田家と徳川の連合軍が鉄砲で打ち破り大勝します。ここで時代が変わったとも言われていますが、戦国時代の1トッププレーヤーが変わったということでしょうか?

碕山 六郎

1575年は素晴らしい時期で、家康自身にとってもですが、戦国時代というところにおいても潮目や風が変わる意味を秘めた年でした。特に家康の流れを勢いづけさせたことと、何か自信になっているものに繋がっています。結果として大勝しましたが、やはりその地を読む、気候を読む、あるいは風水、その合戦場を読んでいく、こういう妙な織田や徳川の特殊なセンス感覚が勝たしたというところだと思います。ですので、天運は乗ってたにせよ、彼らの俊敏さが勝ったというよりも、天の気がたまたま彼らを味方したという見解です。

今井

1582年には、尊敬されてた織田信長が本能寺で亡くなり、家康自身も命からがら堺から岡崎に帰るという、歴史的にも大きな転換期でもある本能寺の変がありましたが、このときの状況についてはどういうことがわかりますでしょうか?運気的にも凶だったということでしょうか?

碕山 六郎

いえ、運気的に凶だったということではなかったのですが、信長そのものの存在も含めて、裏切り者がいたり、周りの雰囲気が怪しかったりと、不穏な状況下の中での出来事でした。家康としては、ここを乗り越えて更に自分の道を開いていくためにも、準身内の存在である信長が亡くなったことで、さらにその周りに取り巻く人の流れを見なければならない、変わらざるを得ない状況になりました。そういう意味では、家康も命からがらとはいえ、冷静に見ざるを得なくなったということだと思います。

ついに成し得た、天下統一
豊臣家滅亡と天下統一。そして、徳川260年江戸幕府の幕開け

織田信長亡き後を受け継いだのが豊臣秀吉。小牧長久手の戦いで、家康と秀吉はぶつかるものの、戦は家康の大勝となり終結。ただし政治的な手腕は秀吉が秀でており、時代は豊臣秀吉の流れに。しかし、1600年には天下分け目の戦いとも言われる関ヶ原の合戦で家康が勝利を治め、その3年後には江戸幕府を開きます。その後、大阪冬の陣・夏の陣で豊臣を滅亡させ、260年にもわたる天下泰平の世を迎えました。

今井

1584年に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と戦います。この小牧長久手は、戦としては勝ったけれども、政治的には負けたと言われておりますが、この1584年の運気というのはどうでしょうか?

碕山 六郎

はい、この時期は三方原の戦いの時期と同じように、巡りが悪い時期でした。秀吉が妙な流れを持っており、戦には勝ったものの、その後の交渉に折り合わなかったことからも、秀吉との相性の悪さを少し感じさせるところではあります。

今井

なるほど。あまり相性がよくなかったと言うことなのですね。それでは、その後秀吉の妹を家康は後妻として迎えますが、秀吉にとってはイヤイヤと言いますか、秀吉の機嫌をとっている流れが見えます。このあたり1585年頃の運気はどうでしょうか?

これをきっかけに家康はますます腹をくくって、秀吉との距離を見直していくようになりました。自分の道を開くためには、秀吉と敵対してはいけないという流れが基本ですので、そういう意味では家康ならではの人身掌握術的なところで、表面的には喜んで受け入れたというところだと思います。

今井

では、それから1598年まで秀吉が存命し、安土桃山時代を築くわけですが、家康と秀吉の関係はどうみますでしょうか?

碕山 六郎

この頃は秀吉と戦うと道が閉ざされると家康はわかっており、そのため秀吉が亡くなるのを待っていたという部分がありますので、家康にとってはやはり新しい道の塞がっていたところが開くような感覚に近い運気でした。占いからみても信長と秀吉は仲良くないですが、家康はそれ以上にその先の時代を見据えて、したたかに立ち回った結果かと思います。

今井

では、いよいよ1600年天下分け目の関ヶ原の合戦ですが、この時家康は59歳という年齢でした。この時期、この戦いについてはどうでしょうか?家康はある程度の勝算をもってこの戦に臨んだと思われますか?

碕山 六郎

そうですね、この関ケ原の合戦そのものがまさに、家康の未来を暗示する不思議な天運を象徴する場面だと思います。確かに運気的にはものすごく強い時期でしたが、勝算というところでいうと、あまりにも不確定要素が多かったため、家康自身もまさかこんなふうになるとは思っていなかったところも多々あったと思います。うまく家康の戦略と運と状況とがハマった、ということだとみています。

今井

なるほど、わかりました。では続いて、1603年に徳川家康が征夷大将軍になり、江戸幕府ができますが、江戸幕府が260年もの長きに渡り続いたということろで、何かありますでしょうか?

碕山 六郎

おそらく江戸幕府が260年もの間続いたのは、家康の強い意志のもとに続いたと言うことではないと思います。家康はその当時、先を読み何をどうすれば良いのかに気づけていたことが、他の人の心を動かし引きつけたのだと思います。そう言う意味では、家康は選ばれし人であるということは、言うまでもありません。

今井

なるほど、人望があったということですね。では続いて、晩年の家康の最後に大阪冬の陣・夏の陣というのがありますが、この時期についてはいかがでしょうか?1614年が冬の陣、1615年が夏の陣ですね。

碕山 六郎

新しい時代へ駒を進めるためにも、古いものを変え、新しいものを作り上げたいという流れの中での出来事でした。おそらく家康だけでなく周りの状況含めて、織田家の残党が残っている状況では、徳川としては長く存亡していくことは難しいのではないかと。そういうところから冬の陣・夏の陣と段階を踏んで着実に織田家を滅ぼす方向に進めていったのだと思います。

今井

なるほどです。そして家康は大坂夏の陣の翌年、1616年に75歳で亡くなったということですね。それでは最後に、これまで家康の人生を幼少期から振り返ってきましたが、やはり家康の運というのは晩年運ということで考えても良いでしょうか?

碕山 六郎

はい、そのとおりです。家康は晩年運でありました。

晩年運とは…?
初年期(若い頃)は非常に苦労して、その苦労が大きければ大きいほど、晩年は成功するといわれている。晩年運が良い=人生の後半の運が良い、と言うこと。

徳川家康、運命のターニングポイントは…?

やはり運命学的に見ても、1600年関ヶ原の合戦の年はとても特殊なタイミングでした。事実上でもそうですが、運命的にもこの年が運命転換を決めたといっても過言ではありません。関ヶ原の合戦に勝利したことで、家康の晩年の隆盛が定まったといえるでしょう。

家康のような晩年運の人生の人は、あまり多くありません。家康をお手本にするのは難しいですが、家康と同じような晩年運の人は、目の前の短期的な出来事に動じず、今の状況の中で自分にとっての最善の道を見出し、一瞬一瞬を無駄にしないという心がけがポイントになってくるかと思います。

まとめ

今回は初の勝手に占ってみたシリーズということで、大河ドラマでも話題の徳川家康を占ってみました。

徳川家康はプライドも高く、自分の目的や政治的意識が強く、ここは絶対に譲れない!といったような、頑固な部分も持ち合わせていました。そのため苦しい部分も多くありましたが、それでも自分の軸や目的はブラさずに、先を見据えてうまく立ち回るスキルは家康の大きな武器だったと思います。

今後も勝手に占ってみたシリーズとして、歴史上の人物や現代の偉人も占っていきますので、ぜひ楽しみにお待ちいただければと思います。